西鉄から新しいビジネスが誕生しようとしている。外国人同士の情報交換を促すことで安心や快適さ、そしてときめきを提供するコミュニティプラットフォームが今、実証実験の段階に進んでいる。イントレプレナー(社内起業家)育成制度を利用して生まれた、ユニークな新サービスが描く未来像とは?
「最終審査を通過しました」――2022年1月、メールでこの通知を見た丁碩泳(ジョン・ソギョン)さんは、思わずオフィスの椅子から立ち上がり、「よし、やった」と胸の前で拳を握った。丁さんが企画し、練り上げたビジネスプランが、本格的に事業化に向けて進むことが決まったのだ。プロジェクトのリーダーは、もちろん丁さん。入社5年目、30歳の時だった。
丁さんは釜山の大学で法学と日本語を専攻した。学生の頃からフリーランサーとして翻訳の仕事を受けていたが、機械翻訳の性能の向上を実感して、「将来、翻訳の仕事は少なくなくなる」と確信した。
どんな仕事に就くべきか――小学生の頃からプログラミングを学んでいた丁さんは世界中でIT人材が不足している今、もう一度、ITに軸足を移し、就職活動をスタートしようと心に決めた。
大学で開催された企業説明会で西鉄の存在を知った。韓国の大学まで自ら赴いた西鉄の人事担当者が、優秀なIT人材を求めていると熱く語った言葉が胸に残った。
当時、IT企業で働いている友人たちとよく話題にしていたのがデータの利活用とスマートシティでした。西鉄は鉄道やバスといったデータがとれるビジネスを根幹にしつつ、ホテルや商業施設を手掛けるなど『街』をつくっている企業でもある。おもしろいプロジェクトに関われるんじゃないか、とわくわくしました。
新卒で西鉄に入社し、福岡の本社で働くことになった。ITの技術を活かして、セキュリティ、システムの保守や開発、ルーティンワークを自動化してくれるRPAの導入や、全社員が利用するグループウェアの代替などの業務に携わった。
忙しくも、成長を実感できる仕事に没頭していたある日、社内掲示板で目にした情報に胸が躍った。「イントレプレナー(社内起業家)育成制度」がスタートするという告知だった。ビジネスプランが採択されれば、専門的な知識のインプットや起業時の体制づくりなど支援してくれるという。「X-Dream(クロスドリーム)」と名付けられた新制度の募集要項を、丁さんは夢中で読んだ。
丁さんには「小さな痛みの記憶」があった。就職前後の戸惑いや不安、情報の入手の難しさに直面した経験だ。もし、日本への留学を経験した上での就職であれば、友人や先輩がさまざまな情報を提供してくれただろう。しかし、当時の丁さんには頼れる存在がいなかった。
丁さんはこれから日本を訪れる韓国の人たちに、自分と同じ思いをしてほしくないと、プライベートで参加していた日韓交流会で、新しい会員から寄せられる質問に可能な限り答えるようにしていた。いずれは会を拡大し、質問や悩みを気軽にやり取りできるコミュニティを作りたいとも考えていた。
そんなときにクロスドリームの募集が始まったんです。『外国人が安心して生活できる街づくり、働ける環境づくり』という目的は、西鉄として取り組む意義がある事業だとピンと来て。その瞬間、個人の問題意識と会社の理念が結びついたんです。
説明会に参加し、ブリーフィングを受けるたびに、このアイデアは会社とともに育てていきたいという思いが強くなっていた。
丁さんが考えだしたビジネスプランは、「在留外国人『くらし』サポートサービス」だ。名称は「NITI」。
日本で生まれ育った人が、海外で働くことを想像してみてください。日本の常識は通用しない。言葉もうまく通じない。家族や友人と離れて寂しいし、人脈からもたらされるビジネスチャンスも激減します。これが日本で暮らす、あるいはこれから生活しようとしている外国人にリアルに起こっていることなんです。
丁さんは当初、ビザの取得に象徴される、さまざまな手続きのサポートをサービスの中心に据えていた。しかし、潜在顧客のヒアリングを続けていくうちに、同胞がいない寂しさや、生活する上で必要なちょっとした情報の欠如のほうが、多くの外国人が日常的に感じている痛みであることに気づく。
そこで、サブとして考えていたコミュニティ機能をメインに持ってくることにしました。現在、世の中で提供されているサービスはどれも弱点があって、それらを克服すれば本当にユーザーに寄り添える、使い勝手の良いサービスが提供できると判断したからです。
現存するサービスは、公用語が英語のみであったり、韓国人専用であったり、日本の携帯キャリアにしか対応できなかったりと、日本で暮らすあるいは暮らそうとしている外国人にとって、汎用性や実用性という面で決して優れているものではない。
多くの人が不満を感じながらも、必要だから仕方なく使っているというのが現実。これらの課題を克服すれば、情報不足に悩む外国人に対する最適なソリューションになる。
そう確信した丁さんは、構想をまとめあげていく。
書類選考である1次選考に応募されたビジネスプランは77件。丁さんは一人で企画を立てたが、チームでチャレンジする社員もいるため関わった人はもっと多くなる。第1回の募集であるにもかかわらず、これだけのアイデアが集まったのは、西鉄の社員の中に「起業意識」が潜在していたことを示している。
1次審査をパスしたのは8件。そこからはワークショップ、ヒアリング、専門家によるアドバイスなどによって、ビジネスプランを磨きあげる。また、これを機に業務時間の20%を新規事業立ち上げのために利用することが許可された。
潜在顧客にヒアリングに赴き、自分の仮説を検証したり、パートナーになってくれそうな外部の企業を訪問したり……そうした活動ができるようになって計画の精度が上がっていきました。もちろん、それだけじゃ時間が足りないから、生活はクロスドリーム一色でした。何をしていても、常に課題が頭の中にある状態でしたね。
中間報告(現在は2次審査)を経て、さらにアイデアをブラッシュアップして望んだ「最終選考」。社長、副社長、役員を前に5分間の持ち時間でアピールする。
結果は最終選考に臨んだ8件のうち上位3件が採択され、丁さんの「NITI」も見事、選考を通過した。丁さんは新領域事業開発部に異動し、「NITI」の事業化に専念することになる。
最終選考の通過から1年余りが過ぎた2023年5月には実証実験(PoC)がスタート。スマホアプリとして利用できるコミュニティサービスのβ版をリリースして、12月までに3000人のアクティブユーザーの獲得を目指す。また、外部企業とも協力して、外国人が集うイベントを開催。月に600人以上を集客する見通しだ。
アプリに関して私の頭の中にある提供したいサービスを100%とすれば、今回のリリースではその10%も実装できていません(笑)。それでも仮説が正しいかは、かなり明確になると考えています。
この結果によって、事業化が継続されるか、あるいは出直しや中断を余儀なくされるかが決まる。
丁さんの仮説が正しければ、この事業、どれくらいまで伸びる可能性があるのだろうか。丁さんは「現時点では本当にわからない」と笑いながらも、構想を明かしてくれた。
日本における外国人比率が高まる2050年頃には数百万単位になると見ています。もちろん、かなり先の話なので、状況がどう変わっているのか、読めない部分が多い。まずは目の前のPoCですね。
新制度で大きなチャンスをつかんだ丁さん。クロスドリームは「西鉄グループ社員誰もが自分の考えていることを一気に実現化まで持っていける点が何よりの魅力だ」と語る。
また、『NITI』がなければ決して出会えなかったであろう社外の多くの方々と話ができたことも、私にとっては大きな財産となっています。
ただし、決して楽な道ではない。
振り返ったら、本当に大変でした(笑)。そして、今からも、やらなければならないこと、勉強しなければならないことが山積みです。でも、すごくおもしろいし、毎日がエキサイティングです。
クロスドリームは「NITI」の他にも、現在3つの案件が事業化に向けて取り組みを続けている。さらに3回目となる2023年度の募集も始まる。
今後、西鉄からどんな新ビジネスが生まれてくるのか。
「NITI」は、挑戦を心に誓う社内起業家予備軍たちの熱視線を浴びながら、今、その本領を試される舞台に上がった。
西日本鉄道株式会社 新領域事業開発部
2017年、西日本鉄道株式会社に入社。
IT推進部に配属され、その後西鉄情報システムに出向。ICT戦略部、DX・ICT推進部を経て、2021年X-Dreamに応募。社長プレゼンののち2022年4月より新領域事業開発部にて新規事業の開発を担当。